「過去イチ」のモンスターがそこにいる

世界の主役、井上尚弥の今

 転級初戦の世界4階級制覇挑戦。国内はもとより海外からも熱視線を浴びる戦いへ向かう“モンスター”は、今までにない柔らかな空気を纏っていた。7月上旬、大橋ジム。キッズボクサー時代から井上尚弥を見続けてきた記者は、そこに日本ボクシング界の至宝の揺るぎない自信を見てとった。

文:本間 暁  Text by Akira Homma 

 

頭の先から足の先まで。わずかな角度にもこだわり、常に自らのフォームをチェックする (写真:山口裕朗 Photo Finito)

平常のジムの風景に、“モンスター”はいた

「え、モンスターがこれから来るんですか!」

 7月3日、大橋ジム。別件で訪れていた記者の心中は複雑だった。もちろん彼の練習は見たい。何度見てもそこかしこに“学び”が散りばめられているし、試合に向けての“ヒント”を目にすることだってできる。だが、彼がジムに入った途端に一変する空気、その圧倒的支配感は、部外者を呼吸困難に陥れるほどの雰囲気を醸し出す。要はこちらの体力、気力がもつか、それに耐えられるかどうか、だ。

 ただの傍観者にすぎないが、“見る”ことは、こちらにとっての“戦い”だ。それには相応の心の準備が必要となるが、それがまるで整っていない。アポイントだって取っていない。試合が迫った選手を、余計なことで刺激したくもない。

「いいんですよ。大丈夫です。見てください」。元世界3階級制覇者である八重樫東トレーナーが、いつものように穏やかなスマイルで、あたふたするこちらを落ち着かせようとしてくれる。もう、肚を括るしかない。

「こんにちは」。颯爽と登場し、にこりと微笑んだ井上尚弥は、ウェアに身を包み、松本好二トレーナーにバンデージを巻いてもらうときですら談笑を続けた。試合予定がないときの日常のジム、その光景そのものなのである。

 以前は試合が決まると尚弥の貸し切り状態となっていたフロアでは、依然として選手たちがトレーニングを続けており、尚弥もその風景の中に融け込んでいる。なによりこんなに清々しい表情を見るのはいったいいつ以来のことだろうと思えるほど、久々に間近で見た井上尚弥は晴れやかだった。

 普段の彼はきわめてさわやかな青年で、この表情は日常の井上尚弥である。かつては自宅からジムに向かうとなった段で、近年はジムに入る際に、スイッチがオンに切り替わった。しかもそれが試合の迫った時期となれば、ましてや本格的な体重調整に入る、ひと月を切った時点ならば、なおさらのこと。

塗装業を営む父・真吾トレーナー(手前)。細部まで緻密な“職人のDNA”
は、息子たちにしっかりと受け継がれている(写真:山口裕朗 Photo Finito)

 もちろん緩んでいるわけではない。こちらの緊張感も継続している。だけれども、意外なほどの居心地のよさ。この“変貌ぶり”に驚かされた。

「本人が出している雰囲気がとても明るいですよね。良い意味でピリピリしていない」

 かつて世界チャンピオンとしてジムの看板を共に張り、2021年11月から週2回のフィジカルトレーニングを担当。熱海、軽井沢で行われてきた合宿はもちろんのこと、昨年9月のアメリカ・ロサンゼルスキャンプにも同行した八重樫さんも当然、“変化”を感じ取っている。「減量を含めたコンディショニングが非常に調子良いんだと思います」と、八重樫さんは第一の理由を挙げた。

 バンタム級(53.5kg)からスーパーバンタム級(55.3kg)へ。「わずか1.8kgの差」という感覚はわれわれ一般人の思考レベルで、「グラム単位ですべてが変わる」ボクサーにとって、このギャップはとてつもない。ライトフライ級(48.9kg)からスタートし、一気にスーパーフライ級(52.1kg)へ上げて2階級制覇。そしてバンタムで3階級目、4団体制覇を遂げた井上は、これまで「階級の壁」を難なく突破してきたが、しかし、フルトン戦発表時から、「スーパーバンタム級からは、相手選手のフレームの大きさと、自分の持っている骨格との差が出てくる」と、繰り返し強調していた。

 もう、近辺の階級では相手になる者がおらず、かなり早い段階からフェザー(57.1kg)、スーパーフェザー(58.9kg)、はてはライト級(61.2kg)の選手ともスパーリングしてきた。「おいコウキ、やろうぜ!」などと、スーパーライト級(63.5kg)からウェルター級(69.8kg)進出も視野に入れる従兄の浩樹を、いたずらっ子の表情で挑発することもあったが、それがあながち冗談でない気さえしていた。

 それでも本番のリング、しかも相手がフルトンともなると、さすがの“モンスター”もナーバスではないにしろ、慎重な発言になるのだろうと納得していた。気持ちいいほどの大胆さに加えての繊細さ。それもまた、彼を構成する強さの秘訣だから。

 だが、試合が迫ったにもかかわらず、彼が発する柔らかい雰囲気は、「相手の大きさ」についての懸念をとうにクリアしていることをも確信させたのだ。

強靭な下半身が生み出す爆発的なパワーを、鍛え抜かれたヒットマッスルが驚異的パンチ力へとつなぐ(写真:山口裕朗 Photo Finito)

「バンタム級だったらしんどい時ですからね。本格的な減量に入ってくると感覚が研ぎ澄まされていって、『さあ迫ってきた。よし頑張ろう!』って、試合に向かうある種のメンタル作りにもなるんです。でも、そのキツさが今はあまりない。だから尚弥は『こんなんでいいんスか?』って感じだと思うんです」

 フィジカルだけでなく、コンディショニングやサプリメントにも精通する八重樫さんは、事あるごとに尚弥の相談を受けて、その都度、即アドバイスを返すことができる。ミニマム級(47.6kg)から尚弥同様、2階級上げてフライ級(50.8kg)を制し、ライトフライ級に下げて3階級制覇。さらにスーパーフライ級にジャンプしての4つ目を目論んだ八重樫さんだからこそわかり合える、いや八重樫さんにしかわかりえないものがある。

 そういう人物が、すぐそばにいる、ジムに行けば会える、そして、まるで高速カウンター合戦のようにリズミカルに答えが返ってくるということは非常に大きい。

「今回はスーパーバンタム級の初戦。バンタム級の当初の頃のように、最初は楽だけど、どんどん体が順応してくると、またバンタムのときのようにキツくなるはずですから。でも今の尚弥が『こんなんでいいのか』って思うということは、それだけ自分に余裕があるということ。だから、『さらにもっと質の高い練習をギリギリまでできるってことでしょ。今回だって最終的にはどのみちキツくなるだろうけど、最後までコンディショニング面で抜くことなくできるからいいんじゃない』って尚弥には言いました。だからメンタルがとても充実してるし、その分、良いトレーニングを積めています。元々集中力も高いけど、いつも以上に」(八重樫トレーナー)  準備を終えて、すっくと立ち上がった尚弥。ここに至り、ようやくスイッチは完全に切り替わった。

“仮想フルトン”たちと充実のスパーリング

 ともに無敗のメキシカンであるブライアン・アコスタ(24歳、身長173cm、リーチ176cm)とセサール・ヴァカ・エスピノサ(21歳、身長170cm、リーチ176cm)。前者はWBCフェザー級地域王者で、スーパーフェザー級でも戦っており、後者はWBCユース・スーパーバンタム級王者。3月に続き、ふたたびパートナーを務める両選手とこの日は各4ラウンド、計8ラウンドの手合わせとなった。

 先に向かい合ったエスピノサは、距離を取る技巧派。尚弥は相手の呼吸を読んだ上でジャブのヒットを重ね、繊細に間合いを詰めていき、コンビネーションブローで追い込んでいく。5ラウンド目から登場したアコスタは、技術もさることながら、尚弥のカウンターや強打にも決して怯まずに、猛烈に打ち返してくるような好戦派。尚弥は攻めて誘ってかわし、圧力を強めては、アコスタの気迫を煽って出てこさせ、それを利用して自らロープを背負い、いなしながらカウンターを叩き込む。かと思えば、今度はプレッシャーをどんどんかけていき、エスピノサ同様にロープやコーナーを背負わせて、強打の雨あられを上下左右に降り注ぐ。アコスタはサウスポーにもスイッチする(フルトンもこれを得意とする)が、尚弥は全く意に介さない。そしてトータル8ラウンド目のラスト30秒、敢えて動きを落としてみせて、至近距離で強打を叩き込むと、アコスタもこれに乗る。

 

自らロープを背負ってピンチの状況を作り、そこでの対応力を磨く(写真:本間暁)

 3月にも同様のシーンを見た。前回は先の4ラウンドをアコスタが務め、猛烈なフックの応酬で尚弥も少なからず被弾していた。力みの影響もあって、ほんのわずか数センチ、スタンスがブレてもいたが、今回は疲労があるにもかかわらず、ブレるどころかキメ細かい小さなステップの切り替えをしつつかわし、強打の右カウンターや左ボディブローを叩き込んでいた。

 主導権を常に掌握し、思うがままに距離や空間を支配し、相手の動きや気持ちをもコントロールして、強烈なパンチを浴びせていく。「ずっとあの調子なんですよ」と大橋会長も舌を巻くほどの高水準をキープ。父・真吾トレーナーとのあ・うんの呼吸も変わらずしっかりとでき上がっていた。

“仮想フルトン”としてベストパートナーだったというジャフェスリー・ラミド(23歳=アメリカ)とのスパーは、残念ながら見ること叶わず。だが、「お互い忍者のように速く、どっちも当てさせない。ラミドとは日本でもロスでも何度もやっているので、お互いに相手を熟知している。だからその駆け引きも素晴らしかった」という八重樫さんの振り返りで、イメージが湧いた。ちなみに、このラミドは近い将来、必ずトップ戦線に喰い込んでくると嘱望される選手である。

 丁寧な確認作業としてのミット打ち、サンドバッグ打ちと淀みなく流れていく集中トレーニング。圧巻だったのは、サンドバッグ・ラッシュだ。かつては真吾さん、太田光亮トレーナーが尚弥と拓真だけ並んだバッグ打ちに声をかけていたものだが、同日出場する選手たちも並列して叩く。松本、八重樫、北野良、鈴木康弘とフロアにいる全トレーナーが取り囲み、大声で煽り続け、呼応するように選手たちが叫び声を上げる。「メキシコ人が混ざるときもある」(八重樫トレーナー)そうで、終わった瞬間は全員がその場にへたり込んでしまうほど。

 みんなで打ちまくり、周囲の全員で手を叩いて叱咤激励する。これはかつて見られなかった光景で、凄まじい熱量だった。

ジムはチーム。一体感がもたらす強さ

「凄かったでしょ。あの熱気こそを、私は求めていたんです」。大橋秀行会長は我が意を得たりとばかりに何度も頷く。八重樫トレーナーがこう述懐する。

「井上家だけでは実現できないものですよね。そしてたぶん、尚弥が本来求めていたものなんじゃないかなと思うんです。尚弥たちは部活としてのボクシングをやっていないから、そういうもの、仲間としてやっていくことを欲してたのかなって。

 チーム井上の絆は素晴らしいですけど、そういうチーム、チーム大橋で勝っていきたいんじゃないかと。大橋ジムの頭としての責任感が強い子ですから」

 たしかに、かつての井上家にはスペシャルゲスト的な雰囲気があり、周囲とは一線を画すものがあった。プロ入り前は様々なジムに足を運ぶ“道場破り”的な訓練を大切にしており、その名残りが多少なりともあったのかもしれない。「同じジムでの練習は、マンネリとは言わないけれど、やっぱり刺激が欲しくなります」と呟いたこともある。ひょっとしたら、敢えてそういうムードを作っていたのかもしれない。が、後輩やキッズ練習生のミットを持ってあげる姿を見たこともある。自分という大きな存在をジム内でどう表現したらベストか。きっと思索していたに違いない。

 八重樫さんの「部活」という言葉を聞いてふと思い出した。2017年10月。スーパーフライ級・井上尚弥とライトフライ級・田中恒成(畑中)、当時WBO世界チャンピオン同士、後の3階級制覇王者同士の対談を企画した際のことである。ふたりがアマチュア時代の話題に花を咲かせていたとき、岐阜・中京高ボクシング部育ちで2学年下の田中の言葉に、どこか羨まし気に耳を傾けていた尚弥の姿を。

 全国大会会場で、学校単位で盛り上がる彼らの日常、たくさんの仲間とともに、汗と涙を流す青春そのものの光景を、そのとき尚弥は思い描いていたのかもしれない。

 この4月に30歳を迎えた尚弥は、「まだまだホープですよ!」と事あるごとに若さを強調する。肉体的な自信はもちろんのこと、あの頃味わえなかった“失ったはずの時代”を歩み出したその手応えもまた、この言葉を支えているように思えてくる。

「僕も現役のときは尚弥とは挨拶をする程度。オレはオレってスタンスでしたから。でも、トレーナーになって、キャンプで真吾さんや後援会の方々、チーム井上の人たちと親交を深めて、彼らがどんなことを考えているか知ることができました。ロスのときなんか、毎晩どんだけハンバーガーを食べながらハイボールを飲んだことか(笑)。真吾さんは絶対に前に出ない人。だから、『俺はサポートするから八重樫くんが表に立って強いジムにしていこう!』って」

 スタッフだけでなく、尚弥、拓真、浩樹とも同様だ。「彼らがどんな子か、よく知ることができた」のは、ジムでの日々だけでなく、日常を共にする時間と空間があったから。それは、逆に八重樫さん自身を理解してもらう大きな機会でもあった。

 こうしてジムと井上家が完全に融合し、大きなベクトルとなって同じ方向に突き進む。それが、井上尚弥が醸し出すオーラを変えた最大の要因なのかもしれない。

「最初は浩樹が望んだのがきっかけですが、尚弥も昔から知っていて、オリンピアンとしてもリスペクトしている鈴木康弘が加わったのも大きいですね。去年の10月くらいから何度か顔を出していたんですけど、彼が正式にジムのトレーナーとして加わったのは5月から。今度の試合が5月から7月に延期になったのも、そういった意味でも大きかったかもしれません」

 古くは『七人の侍』。最近で言えば『ワンピース』。信頼できる仲間が一人、またひとりと増えていくさまは、第三者のみならずきっとワクワクするもの。それが、井上尚弥を中心とするチーム大橋として完成形に近づきつつある。

「尚弥が必要としている人、求めているものが集まる。そういうジムになって彼がさらに融け込めれば、メンタルもテンションもさらに上がるでしょう。とにかく良い環境で、彼が集中してできる居心地のいい場所にしてあげたい」。大きなキーマンのひとりは、ただでさえ細い目を、さらに細めてピースした。

        

さわやかな笑顔が、充実ぶりを表している(写真:山口裕朗 Photo Finito)

 炎立ち上るトレーニングの後、クールダウンも兼ねるストレッチを終えた井上尚弥に声をかける。

――最後の激しい打ち合い、今日は打たせませんでしたね。

「はい。あれも課題のひとつですから」

――いやはや凄かった。前よりも、またさらに進化していますね。

「カコイチです!」

 今風に言えば“食い気味”に。それほど訊いてほしく、そして伝えたかったのだろう。尚弥は自分の出来とモチベーション具合が過去最高だと断言した。

「自分、挑戦と再戦は強いですから」。以前から、口癖のように何度も言ってきた。われわれからすればただでさえ恐ろしく強いのに、さらに──ということだ。そして実際、アマチュア時代から確かにそうだった。

 無敗の強豪。2冠チャンピオン。挑戦……。5年ぶりに青コーナーから登場する井上尚弥は、今度はいったい何を魅せてくれるのだろう。

 

 その5年前。『WBSS(ワールドボクシング・スーパーシリーズ)』バンタム級トーナメント出場を決めた彼は、興奮を抑えきれずこの大会を『ドラゴンボール』になぞらえて表現した。

そしてまた、ふたたび始まる「天下一武道会」。ここからは1戦1戦、毎試合がそういう戦いになっていく。覚悟はとうにできているし、望むところだ。

その第1ラウンドのゴングが、もうまもなく打ち鳴らされる。

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