伏線回収。完璧なるドラマを、“モンスター”は描き出した。
25日、東京・有明アリーナで行われたWBO・WBC世界スーパーバンタム級タイトルマッチ。クラスを上げていきなり挑んだ前世界バンタム級4団体キング、井上尚弥(大橋)は、21勝(8KO)の2団体王者スティーブン・フルトン(アメリカ)を、終始圧倒した。“不倒”王者を2度倒し、8回1分8秒TKOで二つのベルトを強奪した一戦の熱気、余韻は、いまだ冷めやらない。
「頭を相当使いました。それが疲れました。でも戦っていて楽しかった」
一夜明けて26日、大橋ジムでの会見に臨んだ井上は、傷ひとつないさわやかな笑顔で振り返った。
技術と駆け引きに秀で、勝ちを確保するすべに長けたフルトンに、井上はほとんどポイントを与えなかった。25勝(22KO)無敗、世界4階級目の王座奪取もKOで飾るとともに、ふたたび世界を震撼させた“モンスター”ぶりを、あらためて考察する。
文・本間 暁 写真・山口裕朗
Text by Akira Homma/ Photo by Hiroaki Photo Finito Yamaguchi

用意周到な支配
やはり、その瞬間を切り裂いたのは井上尚弥だった。左ボディジャブからの右が、目にも止まらぬ速さで繰り出されると、反応俊敏のフルトンが、全く無反応のままにこの大砲を顔面に直撃されたのだ。
大きく腰を落としたフルトンに、井上は間髪入れず飛びかかって左フックを打ち抜く。吹き飛ぶようにロープの最下段に倒れ込んだフルトンが、立ってきたことが信じられなかった。井上自身も「決まった」と思ったのだろう。ニュートラルコーナーに飛び上がり、早くも勝利をアピールした。実質、これで勝敗は完全に決していた。一気に猛攻を仕掛けた井上の迫力に、フルトンはクリンチすらできぬままコーナーで連打にさらされた。最後はアゴを削り取るような左フックを喰ってしゃがみこみ、同時にエクトル・アフー・レフェリーが試合を止めたのだ。
フルトンが圧を強めた7ラウンドを経て、井上は「(フルトンが)食いついた」という手応えをはっきりと得たのだろう。瞬間、瞬間、0コンマで刻まれてきた用意周到な時間の積み重ね、その総仕上げのときが迫ることを匂わせていた。
「(フルトンに)出ていかざるをえないと思わせる展開にしたかった」
終了直後に井上が語った言葉が、この試合のほぼすべてを言い表している。リング中央でのいわゆる中間距離での戦い、フルトンが距離をとったことによるロングレンジ、そしてお互いが密着しての接近戦。どの距離、どのパターンも、井上が支配した。支配しつつ、ほんのわずかの“余白”を残しながら、である。
ジャブで差し勝ち、右の恐怖心を植えつける
いわゆるL字ガードスタイルで井上はスタートした。左腕を腰の辺りまで下ろして構える、一見、隙のある型である。かつてトーマス・ハーンズやフロイド・メイウェザー(いずれもアメリカ)ら歴史に残る名選手が得意としたスタイルで、黒人選手が好むもの。何より眼前のフルトンも取り入れている。
その“L字”に構え、井上はフルトンの右を誘った。
左顔面をさらし、ぽっかりと現れる空間は、そこに右を打ちたい、という意識を誘引する。技術の拙い選手が見よう見まねでやれば危険ばかりをともなうもの。しかし井上は、これまでの戦歴の中で、折々に織り交ぜてきた。彼は誘い出したフルトンの右に合わせて左フックを狙う。間に合わずとも肩でカバーし、パンチを弾き返す。井上だからこそできる芸当だ。
と同時に、井上が下方に据えた状態から打つ左ジャブは、フルトンの視野の外から飛んでくる。これでボディを刺して距離を測り、かと思えば顔面を襲う。腕を下げた状態から放つこのフリッカージャブは、フルトンのボクシング、そのすべてを司るものといってもよいが、そのお株を井上は完全に奪ってしまった。こうしてじわりとフルトンの精神を削る。

井上はジャブの差し合いを制した。「あれほどまでにジャブで差し勝てるとは思わなかった」と、大橋秀行会長、井上真吾トレーナーが口をそろえて驚くほどに。それはもちろん、井上の距離感が上回ったこともあろう。スピードの速さ、打つタイミングや出所を悟らせないこともある。だが、最も大きかったのは、“井上の右”のインパクトだったのではないか。
フルトンが左ジャブを打てば、井上の右のクロスが飛んでくる。先に放っても、これをかわされてリターンが入ってくる。同時に打てばもちろん、威力では劣る。こうしてフルトンは“先出し”“同時打ち”を井上に制された。あとは井上の右をかわして打つ“後出し”だが、右の圧力に加え、返しの左ストレート、フックが右と同等の威力をはらむだけに、出すことができない。二重三重の包囲網が張られている。

フルトンの予想を優に超えた
敢えてガードの上を叩いて強打を印象づけていた井上の右は、フルトンに恐怖心を芽生えさせ、植えつけていた。心の強いフルトンはその恐怖を振り切って、左を放つ。右ストレートも必死に打ちこんだ。が、そのほとんどを井上にかわされた。
フルトンが最も警戒していたはずの井上のパワーとスピードは、その予測を優に超えていったはずだが、彼が直面した最大の予想外は、井上尚弥の“ディフェンス・マスター”ぶりではなかったろうか。重心を落とし、悠然と、キャンバスに根づいたように構える井上は、位置を瞬間的に組み替えて距離でかわす。頭と肩でリズムを取り、そのリズミカルな動きでフルトンのジャブを顔の左右へと逃がす。派手なボディワークを使わずとも、ほんのわずかの体の“ずらし”でかわす。
フルトンは得意のクリンチまで封じられた。クリンチで井上のリズムを切る。自分のリズムを得る。相手の集中力を削ぎ、気持ちに揺さぶりをかけるのもまたクリンチの効用だが、クリンチをしやすい距離を断ち切られ、クリンチにいく余裕すら与えてもらえなかった。
クリンチにいこうとする“際”に合わせる鋭利なブローが井上にはある。クリンチ際に空間をつくられて、左ボディブロー、左右アッパーを差し込まれる恐れがある。フルトンが「スーパーバンタム級のナチュラル・ウェイト」として自信を持っていたであろうフィジカルの強さも、大木のような井上の下肢の強靭さに遭って上回れず、押し込めない。
井上の強烈なプレッシャーから逃れ、かつ自分のリズムで戦うため、フルトンは長距離を築いた。コツコツと当ててポイントを集め、おびき寄せてカウンターを狙う。しかしその意図もまた、井上に封じられた。後ろ足重心で左右のサイドへ回り込む動きに長けたフルトンは、たしかにいつも以上にスイングを振るう井上をいなす場面も見られた。が、井上はカウンターを狙うフルトンの猶予を、迫力で奪った。空振りしてもバランスを崩さず、フルトンのサイドステップに合わせるように最短でスッと適切な距離をキープする。
「あまりプレッシャーをかけすぎたり、追い込みすぎたりすると、フルトンのペースになってしまうから」
下がるフルトンに、井上は絶妙な距離を保ってプレッシャーをかけた。得意の左ボディブローを打つぞと匂わせて、自分が追わされているように見せかけながら、その実、フルトンに閉塞感を抱かせた。強引にも見えた右のスイングは、フルトンの距離感のよさもあって空振りになったのだろうが、井上が敢えて相手に与えた“余白”、差し出したひとつの隙でもあった気がする。フルトンはその誘いに乗らなかった。いや、乗れなかった。
井上尚弥が仕掛けた“演出”
「1から4ラウンドはペースもポイントも絶対にしっかり取ろうと思っていました」
井上はそう言った。テンポアップした4ラウンドから、一転してややペースダウンしたのが5ラウンドからだ。
それまでは、迫力に押されながらフルトンも巧みな技術でクリーンヒットをほとんど許していなかった。腕によるガード、グローブによるカバー。その上からでも尋常でない威力を感じながら、井上がパンチを出すタイミングやその軌道をインプットしていた。
しかし、それもまた、井上が張っていた“伏線”だった。警戒心がことさらに強いフルトンを“その気”にさせる駆け引きだ。

中間距離、長距離、近距離、これまではいずれも井上主導のものだった。が、ここからは、フルトン主導に“みえる”中・近距離を、井上が“演出”した。そうと悟られては乗らないから、フルトンにパンチを出させ、浅くだが触らせつつ、序盤に多用していた左ボディジャブを打って、“抵抗感”を見せる。
適度な“余白”をつくりながら、井上はフルトンを全方向から包囲していった。井上が仕込んだ“余白”は、フルトンには、攻略の突破口はここしかない、という一筋の光明にみえたはず。7ラウンド、フルトンはその光明に賭けて、攻撃に出る。それは彼の強靭なメンタルが成した行動だ。けれども井上にとってはそう仕向け、待ち構えていた展開だったのだ。


8ラウンド。前に出ることに希望を抱いたフルトンに、一瞬の“空白”ができた。閉塞感からほんのわずか解き放たれたフルトンは、そこでひと息ついてしまったようだ。
それを導き出したのはもちろん井上だった。両者の距離が、じんわりと近づく。そこで井上がテンポの“間”を作り、左ボディジャブから、右。それまでは単発と刷り込んでおいた左ボディジャブ(実は初回に1度、右へのつなぎまで試していた)から、目にも止まらぬ速さでつないだ右だった。

あのフルトンならば、井上のボディブローに右を合わせたり(それは当初から狙っていた)、左を返したりしてもおかしくなかった。それほどの反応の良さを示してきたが、井上が数々の布石を打った果てのこの瞬間、急加速して放ったワンツーに、フルトンは対応できなかった。
パワーパンチ、スピードといった誰にでもわかる“表面”と、駆け引きや展開構成、リズムやテンポを自在に操るなど、われわれには見えづらい“裏面”。井上のこの両面が、見事に表現された。

再現性の高さ、正確さ
「あの右の後に決めた左フック。あれ、凄すぎますよ」と、八重樫東トレーナーが半ば呆れたような声を上げた。
「普通、右を決めて相手があんなに腰を落としたら、一瞬、“間”ができますよ。その躊躇、迷いが一切ない。尚弥のキラー・インスティンクト(殺傷本能)はヤバすぎます。しかも、ロイ・ジョーンズ(アメリカ)のように飛びかかりながらの左フック。しかもしかも、それできちんとアゴを1発で打ち抜いてるんですから」
井上の後輩で、八重樫トレーナーが指導する武居由樹も得意とする技。ジョーンズにしろ武居にしろ、「誰がやっているにしても、いいと思ったものは頭に入れて、とりあえず練習で試してみる。それが試合中に出ることもある」と以前、井上は語っていたが、まさにそれがこの瞬間に噴出したのかもしれない。
「あのボディからの右。ずーっと何度も何度も練習していましたよ。でもそれを試合で再現するのって、本当に難しいことなんです。でも尚弥はこれまでの試合でもいつもそう。きわめて“再現性”に優れてるんです」(八重樫トレーナー)
「これ決まりそう、と思うパターンも徹底的に練習します」。かつて井上が語っていたが、3月の時点ですでにこのボディからのワンツーをミット打ちで繰り返していたことを、記者も憶えている。相手の映像を見て閃く。そのパターンを繰り返し体に染み込ませると同時に、これを決めるための伏線を塗り固める。
前足のやり取り
個人的には、フルトンの左足を自由に機能させてはならないと考えていたが、実際は逆にフルトンが「イノウエの左足封じ」に躍起になっていた。本来はぶつからないはずのオーソドックス(右構え)同士の前足(左足)だが、フルトンは足の長さを利用して、井上の左足の真ん前に常に置いていた。過剰なほどに置こうとしていた。

「あれは邪魔でしたね。何度も踏まれたし、きっとワザとでしょう」(井上)
踏み込もうとして踏まれたか躓いたかのシーンがあったが、井上の素早く深いステップインを、フルトンは壊しにきていた。これも心理面を揺さぶる技のひとつだが、井上は過度に意識することなく、その足を平然とかわし、左へも右にも自在に侵入していった。この前足のやり取りに意識を取られてスタートしていたフルトンは、その時点ですでに“後れ”を取っていたのかもしれない。
振り返れば、オープニングヒットは井上尚弥の左ボディジャブだった。本人にその気はさらさらないかもしれないが、傍観者に与えられたこの試合のヒント、プレゼントだった気さえしてくる。
“モンスター”井上尚弥のKOシーンはいつもド派手だ。観る者に強烈な衝撃を与え、世界中を熱狂させる。だが、その名場面を生み出すものは一撃のパワーだけでない。パンチや動きの速さだけでもない。これらすべてを携えた上で、開始から終了まで、彼が頭に描いた道筋をコツコツと丹念に歩み続けた結果なのである。

素晴らしい記事です!
コメントをいただき、ありがとうございます!
これからも『ボクサーズ』をよろしくお願いいたします。
素晴らしいレビューでした。
あの歴史的な名試合の裏側が、克明に解析されています。
感動しましたと同時に…
勝負の駆け引きの奥深さに心から感銘します。
コメントありがとうございます!
長文になってしまいましたが、あれでも両選手がしていたことの一端を表したにすぎません。
肩書きによらず、ボクサーは誰もがあのようなやり取りをしています。
これからも、ボクサーたちの素晴らしさを伝えていければ…と考えています。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします!