
一対一で殴り合い、倒そうとし合うボクシングが男子プロで17階級にも分かれているのは、体重差がそれだけパンチ力に影響し、危険であるからだと理解できる。自分の能力を最大に発揮できる適正な階級をボクサーは探すもの。階級を上げれば、減量苦からわずかでも解放されるが、同時に、リスクもある。
文:本間 暁 Text:Akira Homma
数グラムでさえ、“違い”をもたらす
体重制競技であるボクシング。いまはプロの男子の場合、ミニマム級(~47.6kg)からヘビー級(90.7kg~)まで17階級に分かれている。が、トレーニングによって筋肉量が増えたり、減量によって能力を出し切れなかったりという理由から、当初の階級から上のクラスに移っていく選手も多い。また、「より大きな相手に挑んでいく」といった、選手自身のモチベーションを強く保つ意味合いもあるだろう。今回、これまでのバンタム級から1階級上の王者スティーブン・フルトン(アメリカ)に挑戦する井上尚弥(大橋)は、バンタム級で世界の主要4団体を制覇したことによる「ライバル不在」、体がさらにたくましく大きくなったことで厳しくなった減量を理由とする。
「適正階級で戦うことの重要性」を常に説き、かつ「挑み続けることの大切さ」を自身の活力とする井上らしい決断。だが、彼は同時に「階級の壁」という強大な敵とも戦わねばならないのだ。
そもそもいったい“壁”とは何なのか。
体重が違えばどうなるか。基本的に、大きくて重い人のほうが小さくて軽い人よりもパワーがある。車に例えれば、軽自動車よりトラックやダンプカーの方が強い。自らが出す力も、受けたときの耐久力も、その両面においてである。
ボクシングでいえば、「ほんのわずか何グラムか違うだけでも異なる」と経験者は語る。極端な話、丸めた紙を握って殴るだけでも、それを握らないときとは威力が違うようだ。
ボクシングは両者が決められた同じ体重で戦うものだから、「体重を上げてきた選手と元からいる選手の比較は無意味」と思うかもしれない。けれども、長年その階級で戦ってきた選手と、初めてその階級で戦うことになった選手では、体がどれだけその体重に馴染んでいるか、その経験が大きくものをいう。これが「階級の壁」と言われるゆえんのひとつである。
初めてその階級に臨み、敗れた選手は「今までに喰らったことのないパンチを味わった」「今まで相手を効かせていた自分のパンチが、今回の相手には全く通用しなかった」などという感想を述べることが多い。
さらにいえば、軽いクラスで戦っていたときよりも、体重を増やして戦ったときのほうがスピードが遅くなった、ということもよく聞く。これはわれわれ一般の人間でも経験したことがあるかもしれない。体重が増えると体が重たくなって動きが鈍るのがまさにそれ。そしてこの現象もまた、ボクサーの場合、「階級の壁」のひとつに数えられる。
壁を感じさせない井上のすごさ
しかし井上は、これまでに2度その壁を突破してきた。1度目は2014年12月。わずか3ヵ月前にライトフライ級(~48.9kg)で戦っていた井上は、初めて手にした世界王座の初防衛戦を終えるとベルトを返上し、なんといきなり2階級も上げたスーパーフライ級(~52.1kg)で、しかもいきなり世界王座に挑戦したのだ。
初めて戦う“重たい”階級では不安がある。それは上記したとおり相手のパンチ力、体の力が強くなると同時に、自分の力が通用しないことが多いから。そのため、通常はテストマッチというお試し試合をこなす。強豪選手ではなく、実力が少々劣る選手を相手にするもので、そうして体と同時に心も慣らすのだ。
けれども井上は、いきなり世界チャンピオン、それもとびきりの名王者に挑んだ。WBO王者オマール・ナルバエス(アルゼンチン)。当時王座を11度防衛中。その前は1階級下のフライ級(~50.8kg)王座も16度防衛していた。アマチュア時代にはアトランタ、シドニー五輪にも出場しており、アマ・プロを通じて1度もダウンしたことがない防御技術の持ち主。対戦相手の強さ、上手さを絡め取り、相手を混乱させてポイントを奪っていく卓越したテクニシャンで、「戦いたくない相手」として世界的に名を馳せていた選手だった。
そのナルバエスに、わずかプロ8戦目、しかも2階級下から上げてくる井上が挑む。世界中のボクシング関係者、ファンのほとんどは「常軌を逸した挑戦」と思っていた。きっと、ナルバエスとその陣営はもっとそう考えていたはずだった。
けれども開始わずか15秒でリングに転がったのはナルバエスだった。直前に右ストレートで額を痛打した井上は、これでガクガクとヒザを揺らしたチャンピオンに、もう1度右を打つ。防御の上手いナルバエスは咄嗟に腕でガードしたが、その衝撃の強さに体が耐えきれなかったのだ。
そうして井上はこの後、あっという間に3度のダウンを追加して、2ラウンドKO勝利を収めたのである。世界中が腰を抜かすほど驚いた、ナオヤ・イノウエ衝撃の飛び級2階級制覇という離れ業だった。
ライトフライ級上がりのグリーンボーイ、その信じられないパワーパンチに、ナルバエスと陣営は疑念を抱いた。敗れた直後、何か仕込んでいたのではないかと井上のグローブをチェックし、何もないことを確認して首を傾げ、ただただ呆然と新チャンピオンを祝福するしかなかった。ボクシングのすべてを知り尽くす男ですら、理解不能の強さだったのだ。
それから3年5ヵ月後。井上はふたたび階級を上げた。バンタム級(~53.5kg)での挑戦で、またしてもテストマッチなしのいきなり世界タイトルマッチだった。
WBA王者ジェイミー・マクドネル(イギリス)は、身長176cm、リーチ(両腕を横に広げて左右の中指から中指を計測)182cmと、井上(身長165cm、リーチ171cm)を大きく上回っていたが、井上は今度もまた恐ろしいスピードとパワーを発揮。マクドネルにあっという間に接近していくと、かするような左ボディブローでダウンを奪い、嵐のような連打を見舞って初回TKO勝利してしまったのだ。
階級を上げて、相手以上のパワーと速さを見せつける井上。彼にとっては減量から解放されて、エネルギーを爆発させているにすぎないのかもしれないが、これは世界的にもなかなか類を見ない事例で、彼だからこそ成せた業と言ったほうがよい。
複数階級制覇といえば、アジアの至宝から世界的スーパースターとなったマニー・パッキャオ(フィリピン)が著名で、彼はフライ級(~50.8kg)からスーパーウェルター級(~69.8kg)までの6階級を制している(※挑戦しなかった階級もあるが、なんと10階級を跨いでいる)が、同じアジア人ということもあって、井上がパッキャオと比較されることも多い。
今回、井上はみたびの「階級アップ。いきなり世界挑戦」に臨む。WBOとWBC、2団体のスーパーバンタム級王座に君臨するフルトンは、21勝8KO無敗で、井上が初めて戦う黒人選手だ。
フルトンは身長169cm、リーチ179cmと伝えられており、以前戦ったマクドネルには数値的には劣るものの、上体の厚み、パッと見ではわかりづらい骨格がしっかりしている。井上自身が「スーパーバンタム級からはフレームが違ってくる」と初めて“階級差”を意識する発言もしてきた。
スーパーフライ級、バンタム級と、駆け抜けるようにあっさりと王座を強奪した井上が、またしても高く分厚い壁を軽々と飛び越えてしまうのか。それとも3度目にしてついにその壁の強大さにぶち当たるのか。それはもちろんフタを開けてみなければわからないが、スリリングな1戦になることだけは間違いない。
7月25日、東京・有明アリーナに、世界中のボクシングファン、スポーツファンの興味と興奮が注がれる。