The Boxer

Photo : Hiroaki “Photo Finito” Yamaguchi

ケンシロウは最高の先生だった。

最強の男に挑んでこそ学ぶこと、見えたことがある。

世界チャンピオンになる。それはもう、おぼろげな夢ではない。

WBA世界ライトフライ級6位 アンソニー・オラスクアガ。24歳。

——後編——

(前編はこちら


文・写真_宮田有理子   

Text by Yuriko Miyata  

 ボクシングで世界チャンピオンになるなんて、雲をつかむような話だった。

 真剣になるほど、そこへ続くであろう道は、ぼんやりとしか見えなかった。アマチュア時代、右手を痛めて試合から遠ざかった時期は、ボクシングをやめて、ミリタリーに入ろうとも考えた。その方がよほど、地に足のついた生活が送れるはずだと思えたものだった。

 でも今は違う。

「ケンシロウと戦って、“世界チャンピオン”という目標がはっきり、クリアに見えている。必ず、世界チャンピオンになる。世界チャンピオンになったら、お母さんに家を買って、そして、僕が育った街にボクシングジムをつくりたいな、って考えているんだ。僕は、街のみんなに育ててもらったようなものだから」

 ダウンタウン北東の、ノースイースト・ロサンゼルス、現地の人がNELA(ネラ)と呼ぶ地域。トニー少年はいつも、路地にいた。母と6人の子供たちは日々、父の暴力におびえていた。狭く薄暗いそんなアパートに帰るのが、いやだった。放課後はスポーツをしたり友達のうちを訪ねたり。虐待のはて父はメキシコに強制送還され、母親教育が必要と判断された母からも引き離され、9歳の1年間は里子に出された。「家族はいい家族ではなかった。でも、友達をつくるのはむかしから大の得意だった。だから寂しくないんだ。みんなに僕は守られている、って感じていたよ」。

 ヘイ、トニー、最近どうだい? 日が暮れた路地を歩いていれば声がかかる。ニコニコと愛嬌のある笑顔で人々から可愛がられる小学生の様子をみていた一人が、ルディ・エルナンデスだった。息子マイケルの友達でもあったオラスクアガは、毎日のように家を訪ねてくるようになった。

「マイケルとはとくに仲がよくて、泊まることが増えた。うちにはお金も車もなくて、外食やショッピングを楽しんだ経験がなかったから、何もかも感動した。知らなかった世界がそこにあった。家族のように接してくれた。ルディはいつだって怖い存在だけど、物事をちゃんと教えてくれた。学校の宿題だって、ちゃんとやるようになったよ」。

 エルナンデスと妻のキャロルは、家に帰ろうとしない少年の家庭環境を知り、自宅に引き取ることにした。ロサンゼルスのゲットーに育ち、父ロドルフォに導かれたボクシングの道でまっとうに生きてこられたエルナンデスが、路地をさまよう若者に手を差し伸べるのは、初めてではない。これまで何人も。実の子と同じように真剣に、厳しく育て、社会に送り出してきた。ライフワークの場であるボクシングジムに、彼らを一度は必ず連れて行った。オラスクアガも12歳の時に、初めてバンデージを撒いている。

「ルディが、1週間続けたら10ドルあげる、と言うから行ったけれど、5日…で終わっちゃったかな…? スパーリングするわけじゃないし、シャドーボクシングだけじゃ退屈で」

 記憶に残る少年の姿は、その短いお試し期間にまさにたまたま、遭遇できたものだったのだ。マイケルに、「友達のトニーだよ」と紹介されたその子は、練習を始めてまだ数日だというのに、まるで覚えがあるように流暢に動いてみせた。膝を柔らかく使い、バランスがよい。だが、ボクシングをやるのか尋ねると否定して、バスケットボールが好きなんだ、と笑った。「いつだって誰よりも小さかったけれど、スポーツは何でも、やれば周りより上手くできた。スピードとパワーにはいつも自信があったよ」。

 そんなオラスクアガはボクシングも、やればすぐできるもの、と高を括っていたようだ。しかしそれは大きな間違いだと3年後、気づくことになる。

 ちょうど中谷潤人(M.T)を門下に迎えたころ、エルナンデスは一計をめぐらせた。悪さをした罰と称して、オラスクアガに、中谷相手に人生初のスパーリングを科したのだ。日本の全国U—15大会で2年連続優勝し、プロになる準備をしていた中谷には、「ジュント、ボディだけ打って」と耳打ちしておいた。結果、そのボディブローで、オラスクアガはキャンバスの上で悶絶。座り込んだまましゃくり上げて、泣き続けるオラスクアガに、エルナンデスは問う。「もうボクシングはこりごりか?」。返ってきた答えは……「冗談じゃない。絶対に強くなってやり返してやる」。そんなエピソードを、エルナンデスは嬉々として語る。

「痛かった、というより、恥ずかしかった。喧嘩で負けたことがなかったから。そのうぬぼれを完璧に折られて、いつか必ずジュントを倒し返そうと思った。でも、それが目標だったはずが、ボクシングに一生懸命になれたのは、他のスポーツにはない難しさを感じたからだと気づいたんだ。ボクシングって本当に難しい。自分の思い通りにいかない。でもだから、頑張るんだ。ルディに“ジュントに感謝しなくちゃな”と言われて、本当にそのとおりだと思った」

 オラスクアガがもつ身体センス。強気。パンチ力。ボクシングの世界で生きてきたエルナンデスの目にも、それらは少年が天から授かったギフトだと映った。アマチュアのオープン戦では対戦相手がいない時も多く、試合間隔はまばらではあったが、リングにあがれば勝った。しかし、思うがまま強打を振るえば、自らの拳を痛めることになった。ある日のスパーリングの最中、オラスクアガはへんな音とともに走った激痛に耐えかね、キャンバスを這った。師にしたたか叱られた。「お前は試合でもそんなふうに痛がるのか。それならその時点で負けだ。右手が使えなくなったら、左を使え。ポジションを探せ。使えるものを使って勝て」。右手の甲はずっと、ひどく変形している。すでに東京オリンピック・アメリカ代表の選考過程が始まっていた2019年1月、手術に踏み切ると決めたオラスクアガは、その意味を胸に刻んだ。手術代を負担したのはエルナンデスと帝拳。ボクサーとしての自分の未来に、投資してくれたのだ。

 その11月、文字通りの“ラストチャンス・トーナメント”に滑り込み、フライ級で準優勝。階級上位2名に入り、12月、ルイジアナ州レイク・チャールズで開催される東京五輪アメリカ代表選考会に駒を進めた。

 全米トライアルの場に立った選手はみな、エリート、と呼ばれるべきだろう。全50州、星の数ほどいるアマチュアボクサーのなかから、勝ち上がってこられるのは、4つの予選トーナメント階級ごとに上位2名ずつ。つまり各階級たったの8名なのだ。会場には、大手プロモーターやマネージャーが勢ぞろい。エリートの品定め、タレントの発掘に、目を光らせる。ボクサーとしては、その目に留まりたい。有力なプロモーションを得て、“特急列車”でボクサー人生を行きたい。厳しい競争社会。切実なチャンスである。

 オラスクアガは、最後のトーナメントの準優勝だから、フライ級第8シード。初戦で第1シードのマイケル・アンジェレッティと対戦した。アマチュア実績で大きく上回るこのアウトボクサーに判定勝ち。有力マネージャーから“おめでとう”と祝福された。ところが勝利の夜、体調を崩して2戦目以降、敗者復活戦も棄権。師弟は帰路についたのだった。

「たとえトライアルで優勝しても、オリンピック出場の可能性はとても低かった。最終的な代表決定を左右するアマチュア実績が僕にはなかったから。ナンバーワンの選手に勝っただけで十分だった。もしもオリンピックに行っていたら、メダルを獲っていたら、と考えてもしかたがない」

 

 どれほど才能があっても、オリンピックでメダルを獲ったとしても、プロでの成功は約束されるわけではない。目を開き、あたりを見渡せば、強いヤツなんてごろごろいる。強くても陽の目を見れないボクサーは無数にいる。なんて不確かな世界なんだ。とくに本場ではマイナーな、軽量級で戦う自分にとって、いったいボクシングは、人生を賭けるべきものなのか。コロナ禍の混乱のなかでなんとかプロデビューを果たし、一戦。また一戦。3勝目で世界ランク入りを果たしても、いつもその疑いは、心の隅っこにへばりついていたという。だが、一つ、できることはある。どんなかたちでチャンスが訪れても、イェスと言えるようにしておくことだ。

 

 6戦5勝3KO1敗。今年4月、WBA・WBC世界ライトフライ級チャンピオン、寺地拳四朗に喫したこの1敗は、これまでの5勝とは異次元の、学びとともにあった。

 激闘の疲れを癒してジムに戻ったオラスクアガが、スパーリングでも、バッグ打ちでも、ふとした拍子に雑な動きをしようものなら、エルナンデスが頭をかかえて喝を入れる。お前は何を学んだんだ、ケンシロウに今ここに来てもらおうか?。

 

「それが今、ルディの口癖だけど、大丈夫。何を学んだか、僕が一番わかっている。それにね、覚えていて。最高の先生に教わった生徒は、いつか先生を越えていくんだ、ってこと」

 

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