
前出『BE WATER、MY FRIEND─ユーリ阿久井政悟の戦い方』に続く再録第2弾(※加筆・修正あり)。前回はvs.桑原拓(大橋)戦についての記者の見立てを中心に書いたが、今回はユーリ阿久井政悟(倉敷守安)本人の言葉で試合を振り返る。そしてここに、阿久井が“並じゃない”ボクサーであることが溢れ出す──。一世一代の大一番まであと4日。無敗のV6王者アルテム・ダラキアン(ウクライナ)に、この“阿久井流”が流れ込む。
文&写真_本間 暁
Text & Photo by Akira Homma
初出=2021年8月16日(個人note)
東京五輪も終わり、すっかり森のようになってしまった庭の木に巣くうセミたちより、ふた足も早く抜け殻になっていた。けたたましい鳴き声のシャワーが、まるで嘲笑うかのように耳をつんざく。鬱陶しくて、昼寝どころではない。
耳元に置いてあったスマートフォンが、唐突に彼らの鳴き声を切り裂いた。
「今日の夕方、時間ありますけどどうですか?」
1本のLINEが飛び込んできたのだった。
あの日のヒーローからの待ちに待った連絡だったはずなのに、いざその段になると急に慌てふためいてしまった。もう忘れられてるかな、試合直後だったしな…と半ばあきらめ、ひと月経ったころに連絡してみようかな、くらいののんきな体勢だったから。同時に、彼が憶えていてくれたことが嬉しくて跳ね起きた。
7月21日、東京・後楽園ホール。日本フライ級タイトルマッチ、チャンピオン、ユーリ阿久井政悟(倉敷守安)対挑戦者6位・桑原拓(大橋)。あの試合から3週間が経とうとしていた。
「明日は髭、剃りますよ」──。決戦前日のオンライン取材での彼の言葉を思い出し、こちらも相応の覚悟で臨まねばならないと思った。できるかぎり身綺麗にし、伸ばし放題だった髭も落とし、2、3発両手で頬っぺたを張った。
やはり、ハナからスピード勝負はしないつもりだった。
「合わせたら、こっちがペースを持っていかれてしまいますからね」
さも当然のように言うが、目の前で速く動き、しかも攻撃してくるものに対し、相応に反応してしまうのは人間の、いや生物の本能、性。それを無視することは、どんなに強い意志を持ち、頑なに拒否しようとしても、なかなかできることではない。だが、彼はその土俵には決して立たなかった。それは「スピードで負けていない」という確信があったからこそなせる技でもあった。
「桑原は、いろんな動きがめちゃめちゃ速いんですけど、それは見ている人たちの目に映る“見た目の速さ”なんです。体感速度、やってる本人同士のスピードでは負ける気はしませんでした。だから例えば一緒にパンチを出しても、こっちのほうが先に当たるな、みたいな。僕の方がリーチも長かったですし」
それを象徴するシーンはいきなり飛び出した。初回、右のほぼ同時打ちがカウンターとなり、ダウンを奪った場面だ。
「あのダウン以降、彼はぴょんぴょんと動き回ってましたが、顔は常にこわばっていました。時々笑ったりもしてましたけど、ほんのわずか、表情は引きつってましたから。そういう意味ではプレッシャー、かかってたのかな、と思います」
戦前、両者を取材した(『ボクシング・マガジン2021年8月号』)が、その際、桑原はやはり阿久井を「大変なパンチの持ち主」と、ことのほか警戒していた。それをいきなりまざまざと見せつけられたのだ。
初めてのノックダウン。しかも、ものの見事なカウンターで。立ち上がったこと自体、不思議なほどの強烈なもの。それに早々のビハインドだ。メンタルが崩壊したっておかしくない。だが、その後も超速のスピードで桑原は動き回った。彼の資質の高さ、練習量、そしてこの試合に懸ける並々ならぬ執念を感じさせた。やはり彼も、普通の好選手ではなかったということだ。
しかし、ここで得た大きなアドバンテージで、一気に勝負に転じない阿久井に、普段、他のボクサーには感じるもどかしさはなく、恐ろしさすら感じたのだった。
桑原は連打を打つ。バックステップで離れる。右へ左へとサークリングする。いずれももの凄い速さで。しかし、阿久井は悠然と、じりじりと間合いを詰めていく。誰が見ても「プレッシャーをかけている」とわかる、猛然とした攻め方では決してない。
「試合前からの作戦として、ただプレスをかけるんじゃなく、ずっと同じ距離にいようと考えていました。詰めすぎず、離れすぎず。当たるか当たらないかというところ、それを保とうと。それが自分の距離かなと思うんです」
激しい攻撃、いわゆるラッシュ。それは桑原の“見栄えの良い”動き同様、派手ではある。が、こと“効果”という点に関して、はたしてどうか。遮二無二連打を放つが、的確性を欠く──。そういう光景は、それが4回戦だろうが世界戦レベルだろうが、何度も見てきたものである。阿久井はその点、実にわきまえている、と感じた。
桑原がどんなに下がっても、サイドへ動いても、阿久井は“ココ”にいる。これだけでもかなり不気味だ。その上、自分がものすごい数の連打を出しているのに“間”を読み切られ、たった1発のパンチを強く確実にヒットされる。桑原にかかっていた精神的圧迫は相当なものだったろう。
「プレッシャーのかけ方だけは自信があるんです」。阿久井は電話越しで屈託なく笑った。
元々、ウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ=元世界バンタム級チャンピオン)とダニエル・サラゴサ(メキシコ=元世界バンタム&スーパーバンタム級チャンピオン)を参考にしてきたという。「ふたりとも、岡山の大先輩、辰𠮷(𠀋一郎)さんと戦った選手ですよね。辰𠮷さんのスピードを攻略したふたり。特にウィラポンはずっと好きだったんです」
サラゴサのことは、父・一彦さんが現役時代、好きだったという。
「(サラゴサは)辰𠮷さんに2度勝ってますが、父が『めっちゃスピードが遅いのに、速い辰𠮷に当てるんよ。わしがやるんはこれだ!』って、当時言ってたのを憶えてます」
いまになってようやく、父が感動していたこと、言っていた意味がわかるようになったのだという。
こうして、阿久井の“スピード”に対する思想、礎は出来上がってきたのだが、さらに確信を深めた試合がある。それが、井岡一翔(Ambition、現・志成)対田中恒成(畑中)。2020年末に行われた“世紀の一戦”だった。
「井岡さんは、ミニマム級のころはスピード感があったんですが、スーパーフライ級に上がってからは特に、スピードがある選手に対して、テンポを落として対抗してるような気がします。恒成との試合もそうでしたが、4階級制覇したアストン・パリクテ(フィリピン)との試合を見て、本当に巧いなぁって思いました。世界チャンピオンなんだから、巧いのは当然なんですが(笑)。
そう! パリクテとの試合は序盤、押されてる“風”だったんです。でもそれはあくまでも“風”。ああいう攻撃は、井岡さんからしたらへっちゃらなんでしょうね。相手にはスピードがあるから派手だけど、それはあくまでも“派手なだけ”なんです。ポイントを取るという観点からいったら、派手なボクシングは無駄な動きが多いと思うんです」
井岡対田中、阿久井対桑原。「スローテンポ」対「スピーディ」。前に出ている選手と、“基本的に”下がっている選手、この2試合はそういう面から見れば対極だ。けれども、俯瞰して見ているはずのわれわれ第三者には見えない主導権争いは、「スローテンポ」側が握っていた。つまり、井岡は田中を“おびき寄せ”、阿久井は桑原を“動かして”いた。そして、決定的な一撃を決めたという点でも共通する。
だが阿久井は、常にリズムよく、圧力をかけ続けられていたわけではないという。
「距離が違うなって思うことが何度もありました。そういうときは敢えてバックステップしてみたり、ステップを刻んでから入ってみたり。何かが違う、おかしいなって思いつつ、同じことをし続ける選手ってけっこういると思うんですが、そうし続けたってしかたがない。何かちょっとでも変えたら合うようになるものです」
あ、そうそう! と両手を打ち鳴らす仕種を感じさせながら、例に挙げてくれたのが高校時代の体育祭の入場行進だ。
「大勢で行進を合わせるんですが、どうしてもズレる人がいる。そういう人たちに先生が『ツーステップすれば合うようになるから』って言ってたんです。それはリズムを取り戻すやり方として、今でも参考にしているものです」
日本チャンピオン、ひいては世界へと駆け上がっていこうという教え子をそのひと言が支えているとは、まさかその先生も思うまい。しかし、阿久井は「日常にこそヒントが転がっているんです」と、さも当然のように語る。
桑原のほんの些細な表情から、彼の状況を認識したのもそのひとつ。話している人の微細な顔の動きから、感情を探る。初対面の人の所作からその為人(ひととなり)を言い当てる。
日常の中の無数に存在する物や事柄から何を感じ、何を選択し、ボクシングに結びつけ、それを自分なりにどう生かすか。それは人それぞれ違う。ある選手は何かを感じ、また別の選手は何も感じない。ともに感じたとしても、その感じ方も違うし、ボクシングに結びつける手法も異なるだろうし、ボクシングへの表現の仕方も変わるだろう。
「似たボクシングはあるけれど、決して同じものはない」。ボクサーの数だけ、異なるボクシングがある。それを生かすも殺すも自分次第──。だからボクシングは奥が深くておもしろい。阿久井は嬉々として語る。
所属する守安ジムは、倉敷という大きな都市にあるものの、ことボクシングの世界から見れば歴とした「地方」である。が、彼からは、地方の選手が抱える悲壮感のようなものがまったく漂ってこない。
「それはきっと、僕が“本気”でやってるからです。たしかに、地方のジムは選手も少ないし、都会のジムとは違うところもたくさんあります。でも、『地方のハンディ』を言ってしまう選手は、本気でやってないんじゃないかって思うんです。だって、アマチュアを見れば、地方の学校が強かったりするじゃないですか。要は“やり方”です」
決して順風満帆で歩んできたわけではない。高校時代の全国大会は最高でもベスト8。プロに入って新人王を獲得したが、中谷潤人(M.T)とのホープ対決に敗れ、世界ランカーにも屈している。だが、ただでは起き上がっていない。自分の感覚を信じ、考え、工夫を凝らす。「普通のことを考えたりやったりしていてはダメですから」と、“普通じゃない”ことを考え、やってきた。
かつての阿久井がそうだったように、阿久井に敗れた矢吹正道(緑)にも、先日取材した際に“受け継がれたもの”を感じた。井岡に初黒星を喫した田中恒成も、はっきりと「井岡一翔の影響」を語り、自身がこれまで培ってきた“田中恒成にしかできないボクシング”との融合を図っている。だから、稀有なボクシングを携える桑原もきっと──。
『スピードボクシング』、それを追求する時代が長く続き、フロイド・メイウェザー(アメリカ)によって、ある種極まった。そして、井岡や阿久井、海外ではサウル・“カネロ”・アルバレス(メキシコ)によって、『スローテンポ』の時代へと突入した感を抱いていた。だが、阿久井は言った。
「メイウェザーのスパーリング、見たことありますか? めっちゃ勉強になりますよ。それこそ“間”で当てている。達人だなって思います。力の流し方に無駄がないんですよ」
メイウェザーほどのスピードにも翻弄されず、メイウェザーの“真”を見つめる。決してブレない目に、わが身を恥じた。そして──。
「この前の最後のワンツー、“パンチを予見する男”福田直樹さんに撮られちゃったんです。でも、予見されるようじゃ、僕もまだまだだなって。自分では相手にも周りにもわからないように打ってるはずなのに……」
“阿久井流”は、やっぱりひと味もふた味も違う。記者の完敗だった。