コラム・蜂のひと刺し

第二回 ガヌーとふたりの「タイソン」

文とイラスト__粂川麻里生
Text&Illustration by Mario Kumekawa

◼️ボクシングを揺るがすショック

僕は今月、本ページではタイソン・フューリー対オレクサンドル・ウシクのヘビー級4団体世界王座統一戦について書こうと思っていたのだ。なんと言っても特大イベントなのだから。ところが、10月28日にサウジアラビアのリヤドで行われたフューリー対フランシス・ガヌーの一戦の後では、そんな場合ではなくなってしまった。フューリー対ウシク戦自体、早くとも来年2月以降というところまで吹っ飛ばされてしまったのである。

 何しろフューリーは、身長206センチの巨体を存分に生かして、クリチコやワイルダーらの歴史的強豪をも撃破、「あの巨躯にして、あのスピードとパワー……、史上最強のヘビー級王者ではないか?」、そんな声さえかかる盤石の最重量級覇者だった。だからこそ、三団体王者ウシクとの「最終決戦」が待望されていたわけだ。「プロボクサー」でさえなかったガヌーとの今回の試合は、常識的に考えれば、「総合格闘技の強豪チャンピオン・ガヌーがボクシングをやったら、どういうことになるか」という(下手をすれば人道問題にさえなりかねない)「余興」以上のものではなかったはずだ。

 それがなんと! 王者フューリーはこの日がプロボクシングでは「デビュー戦」のガヌーに試合を通じての接近と攻撃を許し、第3ラウンドにはダウンまで喫してしまった。青息吐息でスプリットでの判定勝ちに漕ぎ着けるのがやっとだったのである。「ガヌーが勝っていた」という声さえ少なくない。プロボクサーとしての両雄のステータスの天文学的格差を考えれば、もう、ガヌーは「勝ち」に等しい評価を受けていいだろう。しかし、今回はフューリーとガヌーの試合前の「格」があまりに違い過ぎて、おかしなことになっている。

 世界チャンピオン、それも第一級の王者にノンタイトル戦でも勝ったなら、そのボクサーもチャンピオンかそれに近い評価(次期最有力コンテンダー)という評価を受けるのがボクシング界の通例のはずだ。だが、そうはなりそうにない。何しろ、ガヌーはアマチュアでもボクシングの試合はしておらず、掛け値なしに今回が初めてのボクシング試合だったのだ。オリンピックの金メダリストでも、デビュー戦でプロの世界王者に勝利はおろか、善戦した人さえいない(メルボルン五輪金メダルのピート・ラデマッハーが1957年のプロデビュー戦で世界ヘビー級王者フロイド・パターソンに挑戦したが、一度はダウンを奪ったものの、7度ダウンを奪い返されて6回KOで敗れている。五輪2連覇のワシル・ロマチェンコでさえ、世界挑戦はプロ転向後2戦目で、しかもオルランド・サリドに判定負けを喫している)。

 

◼️「前代未聞」の影に……

 だから、ボクシング界には興奮とともに気まずい空気も流れている。フューリー対ガヌー戦の内容と結果は、「現在のプロボクシングというのは、“素人”でも素質や体力に恵まれれば、現役バリバリの世界チャンピオンでも善戦できる、レベルの低いスポーツだ」ということになりかねないからだ。古代ギリシャ文明よりも古い由来を持ち、「キング・オブ・スポーツ」と呼ばれることさえあるボクシングというスポーツのステータスは「高い」とされてきた。実際、競技としての完成度は近年になるほどますます高まっており、フロイド・メイウェザー・ジュニアや井上尚弥などが示したように、幼少期から徹底した基礎トレーニングを受けた選手が一流ボクサーになると、ちょっとやそっとでは太刀打ちできなくなる。それなのに、ガヌーはフューリーの牙城にぐいぐいと迫り、何度もヘビーショットを決め、王者を窮地に陥れた。

 これをどう説明するのか? 今のところ、首尾一貫した解説はあまり目にしない。せいぜいのところ、「ガヌーのアスリートとしてのポテンシャルが驚くべきものだった」、「ただ、やはり、フューリーの調整不足に尽きるのではないか。体はたるみ、脚は動いておらず、体もパンチもまるで切れていなかった」というような声が多いようだ。

それはおそらく間違った捉え方ではないのだろう。ガヌーの身体的ポテンシャルはたしかに凄いのだろうし、フューリーは(何しろ12月にはウシクとやろうとさえ思っていたのだから)鍛え上げられてはいなかっただろう。しかし、ひとつ重要な点があまり議論されていないように思う。

 それは、ガヌーの特別トレーナーにあのマイク・タイソンがついていたことだ。ネット上には、タイソンがガヌーにどのような指導を行っていたか、ガヌーをどういうファイターとして捉え、どのように戦わせようとしていたのかがわかる動画がいくつか公開されている。それらを見ると、マイク・タイソンは今回ガヌーにはチャンスがあると思っていて、「勝たせるため」に全力を傾注していたことが分かる。

 

◼️アイアン・マイクの「開示」

 タイソンはガヌーについて、また今回の指導について、こんなことを言っていた。

「フランシスは、これまでずっと『這い上がるしかない』中で生きて来た男だ。今回だって、あいつに選択の余地はなかった。『フューリーとやるか?』と言われたら、『やる!』と答えるしかない。このチャンスをモノにするしかないんだ。フランシスは、そうして生きて来たんだ(ガヌーは人生を切り開くために、10年前、『フランスでボクシングをするために』祖国カメルーンからひとりぼっちで脱出亡命した)」。

「ボクシングは、強い奴だけが勝つんじゃない。考えることができる奴が勝つんだ。そして、フランシスは誰よりも深く考える男だ。その点で、勝てる可能性がある」

「フランシスには動くことを教えている。身体を動かし、脚を動かしながら、攻撃していくんだ。その時、呼吸しながら動くことが非常に大切だ。速く動こうとすると、大抵の奴が動く瞬間に息を止めてしまう。でもそうすると、動きが硬いモノになってしまう。呼吸しながら動く練習をすることで、体重移動がスムースになり、コンビネーションにも爆発力が生まれる」

「相手に見えないように(elusive)動くことが大切だ。自分のパンチや攻撃の意図が、相手に見えないように動く。そうして、見えないところから『バーン!』と強打する」

「練習は、きついことをやらせている。『もう、動けない』というところから、どれだけ動くか、それが、終盤の勝負を分けてくるんだ」

 明らかに、タイソンは現役時代よりも雄弁になっている。経験を積んで、かつてよりも自分の経験を言葉で伝える能力を向上させているようだ。「呼吸しながらの、見えない動き」を要求する点などは、あの爆発的な「タイソン・スタイル」の秘密の一端を伝えていると言えないだろうか。こういう発想を伝えながら、タイソンはガヌーに、かつてカス・ダマトが自分に教えたとき以上に、厳しく、激しく、反復運動をさせていた。

 また、タイソンの幼馴染で、彼とともにカス・ダマトの指導を受けていたビリー・ホワイトは、今回参謀役についていたが、こんなことを言っていた。

「フューリーはたしかにこれまで体格で優位に立ってきた。けれども、今回はそんなに体格の差はない。フランシスの身体は非常に強いし、それにリーチが長いんだ。フューリーの最大の武器はあの長いジャブだろ? だけど、フューリーとフランシスのリーチの差は1インチ(2.54センチ)しかないんだ。ほぼない、と言っていい」。

いかがだろうか。少なくとも、タイソンとホワイトは、「ガヌー勝利」のビジョンをはっきり持っていたのだ。ガヌーのあのファイトスタイルは、さほどスピードのある動きをしているようには見えなかったが、相手から「見えない」角度から「思い切ったパンチ」を放つことで、無敵の王者に泡を吹かせようとしていたのである。

 かつての、マイク・タイソンのスタイル自体、現代でもまだ完全に解明されたとは言えないだろうが、それでもパッキャオにしても、ロマチェンコにしても、それぞれに「タイソン式」を取り入れて、無敵のボクシングを作り上げていったトップボクサーは多い。より「タイソンの秘密」が開示されるほどに、何かが起きていく可能性はある。今回の「フランシス・ガヌーの衝撃」は、ガヌーという注目すべきファイターが出現したというだけでなく、マイク・タイソンがトレーナーとして再びボクシング界を震撼させ始める、その序幕なのかもしれない。

PROFILE 

くめかわ・まりお

1962年栃木県生まれ。『ワールドボクシング』誌編集記者を経て、フリーランスのボクシングライターに。ドイツ文学研究者の顔も持つ。

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