“愛の拳士”中谷潤人の物語

第1話 人生をかけてアメリカに渡った

2月24日、東京・両国国技館で世界3階級制覇をかけ、WBC世界バンタム級チャンピオン、アレハンドロ・サンティアゴ(メキシコ)に挑む中谷潤人(M.T)、26歳。中学1年でボクシングに心をつかまれてから、世界に轟くトップファイターの仲間入りをした今も毎日、新しい学びがあるという。このボクサーの純心はいかにしてつくられたのか。来し方をさかのぼり、ひもといていきたい。

文・写真_宮田有理子 Text&Photo_Yuriko Miyata

中谷潤人◎なかたにじゅんと M.Tジム所属
1998年1月2日、三重県東員町出身。神奈川県相模原市在住。元東洋太平洋スーパーバンタム級王者の故石井広三さんが営むKOZOジムに中学入学と同時に入門。2年、3年次にU-15全国大会で優勝。中学卒業後、単身渡米。故マック・クリハラ氏に続き、2度目の渡米からルディ・エルナンデス氏の指導を受け始めた。2015年4月、17歳でMTジムからプロデビュー。2016年フライ級東日本新人王MVP・全日本新人王。2019年2月、日本フライ級王座獲得。2020年11月、WBO世界フライ級王座獲得(防衛2度)。2023年5月、WBO世界スーパーフライ級王座獲得(防衛1度)。プロ26戦26勝19KO、身長172cmのサウスポー。

 昨夏、9月の初防衛戦に向けたロサンゼルス・キャンプ中のことだ。

 テレンス・クロフォード対エロール・スペンスJr.(ともにアメリカ)の世界ウェルター級4団体統一戦を現地ラスベガスで観戦した快活な若武者、佐々木尽(八王子中屋)が、中谷が練習しているジムに立ち寄った。気さくな世界2階級制覇王者に尊敬のまなざしをまっすぐ向けて、技術のこと、練習のこと、真摯に返してくれる言葉に耳を傾ける。そんなボクサー同士の熱いやりとりを、傍らで聞き入っていたさなか。中学卒業後、ひとりこの地にやってきてトレーニングに励んだことに話が及んだとき、中谷がさらりと口にしたひと言に、はっとさせられた。

「人生かけて、来たからね」

 短くて、ずっしり響く。やせっぽちの少年がたずさえるのに、どれほど重い覚悟だったかを想像した。

 ロサンゼルスのジムをめぐれば、ボクシング修業に来ている日本の若者に遭遇することはある。いつであったか、夕方のジムにルディ・エルナンデスを訪ねた時、「潤人」と名が入ったグローブをつけていた中谷も、そのひとり。だが、エルナンデスは「この子は特別なんだ」と言った。言葉も通じないままエルナンデスの実家、通称“ママズ・ハウス”にずっと寝泊まりしているというだけでも、只者ではない。高校へ進まず、ボクシングの本場で修業する道を選んだ少年は、「人生をかける」覚悟で、あそこにいたのだ。

 空港に降り立った当時の、スカッと乾いた空気のにおいは、ずっと憶えているという。

 15歳。初めての海外に単身で渡るのは、

「不安がなかったわけじゃないですが、わくわくの方が上回っていました」

 最初の合宿は卒業1年目の夏。マック・クリハラ氏に3週間、師事した。元WBC世界バンタム級王者・薬師寺保栄(松田、現・薬師寺ジム会長)、元世界2階級王者・戸髙秀樹(緑、現・戸髙樹ジム会長)らを育てた、厳しさで知られる名伯楽の、マンツーマン指導。日々のスパーリング相手の中には、のちに“モンスター”井上尚弥(大橋)の練習相手として知られることになるフィリピン系アメリカ人ジャフェスリー・ラミドがいた。最終週にはアマチュアのワンマッチに出場し、勝利とともに、ボクシング人生最初のベルトを手にした。

「黒と赤のベルトなんですけど。日本の大会ではメダルで、ベルトはないので、嬉しかったですね。自信にもなりました」

 そして、その試合を見ていたエルナンデスとの縁を得て、指導を仰ぐことになる。

 次の渡米からは、ビザ免除期間90日めいっぱい、留まった。

 滞在先となる“ママズ・ハウス”は、1992年ロサンゼルス大暴動の現場となったサウスセントラル地区にあった。中谷が訪れる2年ほど前に亡くなっているスーパーフェザー級の名王者、ヘナロ・エルナンデスを生んだボクシング・ファミリーの家は、グローブをかたどった鉄板が貼り付けられた高い鉄格子に守られていたが、通りはいつもゴミだらけで埃っぽく、パトカーが行き交った。散歩をしようと外へ出ると、2軒むこうの集合住宅に警察官がものものしく集まり、ちょうど住人が連行されていくところだった。土地勘のないまま街を駆けると、スキッド・ロウと呼ばれるホームレスのテント群にいつのまにか迷い込み、冷や汗をかいたこともある。

 まさにボクシング漬けの毎日だった。

 朝、ロードワークを済ませて、「おじいちゃん」ことルディの父ロドルフォが運転するバンでジムへ向かう。午前、午後の二部トレーニングで、相手さえいれば、いつでもスパーリングの交渉が始まった。

「午前も午後もスパーでした。朝、走って、ジム行って。みんな一緒に食べるお昼ご飯の時間が長いんで、食べ終えて、家に戻って1時間くらいだけ休んだら、またジムの時間です。あの当時、今よりもスパーしていましたね。こんなにやってていいのかな? って思っちゃうくらい。ほぼ毎日。ジムに行って、相手がいたら、よし、やるぞ、みたいな。だから、道具も、気持ちも、いつでもそのつもりでいました」

 エルナンデスはいまも変わらず、持久系サーキットともに対人練習を重視する。長年のアシスタント岡辺大介トレーナーもそろって、実戦アイデアの宝庫。類まれなる戦術家たちだ。スパーリングでは相手をみながら、各ラウンド、課題を与える。中谷にとってそれは、彼らが授けるアイデアを試し、その有用性を実感して、自分のものにしていく作業。体も神経も総動員の鍛錬である。のちに親友となるアンソニー・オラスクアガ(アメリカ)をボディブローで号泣させ、エイドリアン・アルバラード(アメリカ)の鼻を左ストレートで折ったのも、逆に当時WBA世界フェザー級王者だったニコラス・ウォータース(ジャマイカ)に「遊ばれた」のも、スパー三昧の日々の1ページだ。

 エルナンデスと中谷の師弟関係は、「本気」の確認で始まっている。本当に高校へ行かずボクシングをやるのか? 高校へは行くべきではと問いただすエルナンデスに、少年はきっぱりと言ったという。

「世界チャンピオンになるためです。本気です」

 本気を証明するのに、ほかの言葉は必要なかった。強面で辛口で昔気質のエルナンデスには、懸命に食らいつくその姿勢だけで伝わった。「ジュントに規律を教える必要はなかったよ。すでに彼は誰より自分を律していたから。同世代の子たちに遊びに誘われても、ディズニーランドに誘われても、ニコニコしながら“ノー”と言って、ジムへ行くことを自分で選ぶんだから」。

 毎日、夕方のジムワークを終えてママズ・ハウスへ戻ると、エネルギーは残っていなかった。中谷はエルナンデスの甥っ子ロッキーの部屋に“居候”していたのだが、うす暗いその部屋がどんな様子だったのか、ほとんど記憶にないという。

「それくらい毎日疲れ切っていたというか…そこは寝るだけのところ。もう気を失うように眠るだけでした。でも、それが楽しかったんです。素直にボクシングが好きで、楽しくて、これだったら人生を捧げられると思ったものが、僕にとってはボクシングだったので」

 ハードな90日合宿を3度重ね、岡辺トレーナーの縁でM.Tジムへの所属も決まり、プロ転向を見据え、アマチュア最終戦として週末の大会に出ることになった。相手は、ルーベン・モラレス。2週間前までジムでよくスパーリングをしていた選手だった。だからやりづらいスタイルであることは承知していた。それでも序盤は後手に回ってしまった。尻上がりにヒットを増やし、勝利に届いたと感じたが、結果は判定負けだった。ボクシングで初めて味わう負けだった。

 その夜、久しぶりに電話をかけた。遠い地元で、父・澄人さんが営む鉄板・お好み焼き店『十兵衛』に試合のポスターを貼り、常連さんたちとともに結果の知らせを待っていたからだった。

 澄人さんは振り返る。「負けました」、と言ったきり黙っている息子が、電話のむこうで泣いているのがわかった。

「自分に経験のないことを子供がしていて、まして海外修業とか、もう未知の世界です。どう声をかけてあげたらいいのかわからなかったです。出た結果を、親がどうしてあげることもできませんしね。ひとつ自分に言えるとしたら、悔いの残ることだけはやったらあかん、ということだけ。“悔しいんやったら、次は涙を流さんようにもっと頑張れ”と、言ったんです」

 プロでは絶対に負けない。落ち込むかわりに、そう誓った。

第2話「幼い日、本物のボクサーに心をつかまれた」につづく

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